タイ研修旅行レポート4

“Sabba papassa akaranam kusalass upasampada
Sacitta pariyodapanam etam buddhanasasanam”
(*注1)
(いかなる悪もなさないこと 善を獲得成就すること
 みずからの心を清めること これが仏たちの教えである)

今回のタイ研修旅行で一番驚いたこと。それは、「ドリアン」でした。

まさかあれほど美味しいものとは思いもよりませんでした。いわゆる日本で大袈裟に捉えられているような臭いや味ではなく、柴会長が露店で直接買ってきて下さった切りたてのものは、甘さ控えめで柔らかな洋菓子のようで、まさに果物の王様と言うに相応しい味でした。

最も、その後に時間が経ってから食べた方々の感想を聞くと、やはり臭いは強く、味も悪かったそうで…。やはり鮮度が重要な果物なんであろうな、という認識を持ちました。食べ物ひとつとってみても、日本に居るだけでは分からない現地の味わいや場の雰囲気を体験することができ、大変有意義な旅となりました。

さて、冒頭に上げさせて頂いたパーリ語の文章は、日本でもテーラワーダに興味のある方々にとっては有名な「諸仏の教え」という偈文です。

この度、タイのワット・リアップでお会いし、滞在中に各所で色々とお話、ご案内頂いた神田英岳師(*注2)より柴会長が拝領した「パーティモッカ二二七戒経」(*注3)を移動用バスの中で回して頂いたのですが、この本の最初にもこの偈文の記載があり、印象に残っていたので転載させて頂きました。

パーティモッカというと耳に馴染みのない響きですが、これは波羅提木叉(具足戒)のこと。その中で、比丘向けの227項目の戒律をパーリ語原文と日本語訳、注釈などもつけてまとめてあるのが本書です。

今回のタイ研修旅行は、青年教師会の行事として「懴悔行」との位置づけがされておりました。懴悔とはこの本にも書いてある通り、元々は満月と新月の日に同じグループの比丘達が半月間の行為を反省する布薩の中で行われることです。そういった意味で、現代の日本社会に生きる仏教者としてタイに行き「何をどのように懴悔すべきか」というのはずっと気になっていた点でした。

タイの仏教は上座部仏教であり、日本に伝わっている大乗仏教とは、古くに戒律に対する考え方の違いから袂を分かった存在。インドからの北伝の過程で様々な宗教や文化、思想と融合して変化してきた現在の日本仏教とは全く別のものという印象があり、「比較してどちらが良い、悪い」といった考え方を持つこと自体にあまり関心が持てなかったというのが正直な話です。

戒律遵守という道を選んだ上座部仏教徒が、時代を経てもその教えを貫いていることはとても重要な事で、それは素晴らしいとは思いますが、だからといって現在の日本仏教徒が上座部仏教の僧侶に対して引け目を感じる必要は無いという考えです。

そもそも、上座部に繋がる戒律遵守の派から大乗仏教に繋がる一派が別れなければ、仏教が世界宗教になることも無かったでしょうし、日本に伝わることも無かった(か、もしくは著しく伝来が遅れた)でしょうから。それぞれの存在に意義があり、特に優劣を比較するような必要性を感じなかったのです。伝播した地域に住む人々のニーズに答え、歴史と文化の流れの中で仏教は柔軟に変化をし今に至っているという事実を認識していれば、それで良いと思っていました。

しかしながら、今回タイに行かせて頂き、実際に上座部仏教に触れ、現地の方々の行動や雰囲気、数々の寺院を巡り、タイの僧侶として堂守をされている神田英岳師から日本人の立場からも色々なお話を聞かせて頂いたことで私の考え方、印象が大きく変わったところがありました。

それは、「日本仏教とタイ仏教とは全く別のもの」という誤った概念。

上座部仏教と大乗仏教では、確かに僧侶の考え方、作法から生活様式に至るまで違うところが多々ありますが、その国の社会の中での仏教のあり方、受け入れられ方には多くの共通点がありました。とりわけ、「信仰の対象」としての仏教ということについては、上座部と大乗で大きく異なるわけではないのだ、という印象をもちました。

神田英岳師(写真中央)

近年、日本でもスマナサーラ長老を中心としたテーラワーダ仏教ブームがあり、「論理的で科学的な智慧の幸福論」として仏教原点回帰の理想を求める方々が急増しているようですが、実際タイの寺院での様子を見ていますと、「論理的」であるかどうかというよりは、「信仰の対象となるかどうか」ということが重要視されているように感じました。

原型が分からないほどに仏像に金箔をひたすら貼り付けたり、功徳のある鐘を寄進してみたり鳴らしてみたり、プラクルアンというお守り(日本のお守りよりも扱いが丁重)を持ってみたりという様子を見ていますと、日本の寺院に参拝する方々と、気持ちはそう違わないものなのではないかと感じます。程度の差はあれ、タンブン(*注4)の考え方も日本の廻向に近しいものに思えました(領収書に書かれた名前でタンブンの功徳が転送されるというシステムは便利、…というかユニークでした)。

日本人の信仰の根底に、先祖崇拝と八百万の神信仰があるように、タイの人々にも精霊(ピー)信仰が根底にあります。日本人が家に神棚を祀るように、タイ人は敷地内に精霊の家を作り祀ります。そうした根本の信仰の上に、仏教が定着し、文化と融合して人々の精神的な依りどころとなっているのは、上座部や大乗ということを問わず、共通している大事な事実だということに気付かされました。

仏像に貼り付けている様子

しかし、そうであるにも関わらず、近年の日本仏教僧侶に対する批判や尊敬の対象になりにくい現実というのは、ひとえに教えの内容・性質の差によるものではなく、仏教徒として基本を知らずに(もしくは実践せずに)、ただ慣習に従い定められた仏事のみを行い、心を育てることを怠っていることに原因があるのではないかと私は思います。

柴会長が今回「懴悔行」ということを言われたのも、タイで尊敬を集める僧侶の態度、生活、心のあり方を実際見て感じることで、青年教師会員に僧侶としての基本に気づいて欲しいという切実な思いがあったのではないかと勝手に推察する次第です。

仏教徒としての生き方の基本とは、文頭に挙げた「諸仏の教え」です。輪廻思想に基づく「諸悪莫作」が仏教の教えであり、悪行為の原因となる三毒(貪り・怒り・無知)からなるべく離れる生活をし、慈悲の心を育てる生き方が重要だという点は、上座部仏教でも大乗仏教でも同じです。

仏教には様々な宗派がありますが、これはどの宗派でも基礎にある教えと認識しています。先に紹介したパーティモッカにある戒律も、「ガチガチのルールで縛る」のが目的ではなく、「悪行為をしない(心に汚れを作らない)ようにする」のが目的です。

こうした教えは、お大師様の説かれた十住心論や秘蔵宝鑰においては声聞・縁覚の教えとして第四、第五段階以下の住心に位置する部分です。真言僧侶にとっては顕教の教えになるのですが、この辺は仏教思想の根幹ですから、密教を学び実践する立場であってもやはり知っておかなければならない教えだと私は思います。

どんなに権力があっても、どんなに財力があっても、どんなに容姿が良くても、どんなに成績優秀でも、ひと度悪行為に手を染めれば、たちどころにそれは悪果を招く種となり、やがては自分自身の人生、果ては来世に至るまで災いを為す、という自業自得、善因善果・悪因悪果の思想。

世間でいくら「人格者」や「人徳者」ともてはやされているような人であっても、この業の仕組みにより、悪行為をすれば一転して不幸な人生に転落するという現実は避けられません。

また、無常(*注5)の世界であるからこそ、実在する心もまた消滅することはなく形を変えて存続する、という輪廻思想の中で、心の質のみは継続されるという信仰から、少しでも良い生まれ変わりを得たい、ということで「功徳を積む」もしくは「心を育てる」ということになります。

誰も、わざわざ不幸になりたいとは思いません。幸福になりたいのであれば、三毒から離れ、心を育てる努力をしましょう、というのが仏教の基本です。単純な教えに見えますが、「三歳の童子もこれを知るが、八十の翁もこれを行うは難し」というのが道林禅師と白居易との逸話(*注6)で有名ですね。

今回、何を懴悔するかで色々と考えてみましたが、私の場合、一番目に上がってくるのは「今まで本気で知ろうとしなかった自分に対する懴悔」ということになろうかと思います。

「本気で知る」とは、つまり「体験を伴った智慧とする」ということ。書籍や映像で知ることの出来る範囲で分かったつもりでいた自分が、如何に情けないかということを思い知らされました。

冒頭にドリアンの話を挙げたのは、そうした「話だけの知識」が「体験を伴う知識」に変化した、一番印象深い出来事だったからです(印象深いという意味ではサンティアソークもそうなのですが…僧侶の方々が出かけてらしたのが少し心残りでした)。

15年前、専修学院の授業で、当時門主を勤めていらっしゃった松長有慶管長猊下が、実体験を伴う「智慧」をにこやかに「味噌汁の例え(*注7)」で説いて下さったことを今更ながらに思い出しました。

「日本ではテーラワーダ仏教に対して理想的な部分ばかり見ている。また、日本のテーラワーダ仏教の方々もそのような部分ばかりを説く。実際は、そういうキレイで理路整然とした事ばかりではない。生活、文化の中でのありのままの上座部仏教を、きちんと見て欲しい」ということを神田英岳師がおっしゃっていました。

今回の研修旅行の短期間だけでタイの上座部仏教が理解できたわけでは当然ありませんが、実際に行き、触れることで得るものは確かにありました。この経験を生かし、また自分の人生の歩み方を探っていければと思います。ありがとうございました。

記事:山本高寛

*注1 活字表記の都合上、原文から発音記号を除いています。
*注2 ワット・リアップの日本人納骨堂20代目堂守。高野山真言宗僧侶。
*注3 発行所はタイの寺院ですが、日本では中山書房仏書林で入手可能です。
*注4 布施。徳(ブン)を積むこと。寺院や僧への寄付の他、広義では他の生命を助ける行為も含まれる。
*注5 実在するすべてのものは常に変化し続け、決して消滅することは出来ないという真理(諸行無常)。
*注6 道元禅師「正法眼蔵」諸悪莫作の巻。
*注7 今朝飲んだ味噌汁の美味しさを相手に伝える最良の方法は、百の言葉を使うよりも同じものを用意して味わってもらうこと、という話。文字や伝聞だけで分かろうとしても難しく、実体験無しにはきちんと理解することができない、という趣旨でした。…確か、最澄さんに理趣釈経を貸さなかった理由に関連して出てきた例え話だったかと思います。