東日本大震災物故者供養の旅2

【本行事について、済世利人部長より寄稿】
東日本大震災の被害から、6年が経ちました。多くの人々が亡くなり、今も多くの人々が行方不明のままです。瓦礫の山は多くの人達の力により殆どの地域で片付き、被災各地は被災地から脱却し、復興地として新たな街づくりの最中でした。

陸前高田市は、高田松原で有名な、岩手でも温暖な気候で有名な観光地でした。

しかし、高田松原は津波の被害により流され、一本だけ残った松を保存し、復興のシンボルとして沿岸部に移植されました。街は土地の大規模な嵩上げにより、以前のような景観は無く、海へ振り向いても、沿岸部は防潮堤が巡らされ、海を望むことは叶いません。悲しみや被害を繰り返さない為の、対策をとりながらの街づくりが続いています。

震災遺構として道の駅が保存され、津波の被害の凄まじさを今も目にすることができます。その向かいに、慰霊碑のある建物が建築されていました。理趣経一巻を読誦し、供養を致しました。

想いを形にする。それは人間の大切な営みだと思います。慰霊施設はその大切な想いを形にする施設でもあり、復興には欠かせない場所であるのだと、感じました。
次に訪れたのは、気仙沼です。

気仙沼の杉ノ下地区は、甚大な人的被害を被った場所でもあります。多くの人々が亡くなり、沿岸部の土地は造成の工事の車輌が作業の最中でした。
再建されたであろう幾つかの新しい家々の建つ土地の近くに、慰霊碑はあります。此処でも経典を読誦致しました。

慰霊碑には、後世の人々に伝えるべきメッセージが彫られていました。被害や様子を伝えていくことが、どんなに大切なことなのか。私達に亡くなられた人達が説法をしてくれているようにも感じるのでした。

南三陸町ではホテル観洋で行われている『語り部バス』に参加致しました。土地を巡りながら、震災当時の様子、津波の被害、復興への問題…様々なお話を地元の方から伺える機会でもあります。他所から来た者が、地元の方々の当時の話を耳にする機会は、あまり無いことだと思います。

ホテル観洋は、震災当時も被害が少なく、一時的な避難所の機能を果たしていたそうです。
南三陸町も、ビルの三階に相当するであろう高さまで、地域ごと土地が嵩上げされています。避難を呼びかけ続けた職員の方々が亡くなられたことで知られる防災庁舎も、いまや窪地のように見えて来るほどに嵩上げが進んでいます。
その中で、南三陸さんさん商店街が、移転オープンし、新しい街づくりへの第一歩が踏み出されていました。
商店街には鮮度抜群のタコや魚介、それらをふんだんに使った「キラキラ丼」など、観光客にも魅力ある商品を取り揃えておられます。地方配送も受け付けていたりします。商店街のみならず、個人商店のマップも作成し、商店を巡れる工夫を街を挙げて積極的に行っています。

もう、悲しい場所というだけではなく、観光客を呼び込むような街づくりが展開されようとしています。大きなホテルだけではなく、民宿も多く点在し、東北被災地各地はそれぞれに復興への道を歩みつつあります。足を運ぶことは、復興への支援だと思います。

大川小学校にも読経に行って参りました。この地はいつも風が吹いている印象があるのです。特に今回は強い風が吹き、合掌したその手の体温を奪うほどの風でした。亡くなられた方々は、さぞ、冷たかったろう、寒かったろう…そんな想いが頭を巡りました。どうか皆、安らかに御仏の元にありますように。大川小学校の慰霊碑の前には、いつ来ても花が綺麗に供えられています。皆の想いの深さを感じます。

女川に参りますと、雪がチラチラと風に舞っていました。6年前の3月11日も、そうした東北沿岸部には雪が降っていたと聞きます。

慰霊碑は女川の大きな病院の麓にありました。山頂の神社を頂き、その斜面にある病院。かなりの高台にあるにも関わらず、この病院の一階も津波によって被災しています。その上にあった神社の参道に逃げた人達は、助かっていて、その動画がインターネット上にあるかと思います。

平らな土地の少ない女川は、様々に工夫を凝らし、高台に住宅を建設すべくまた嵩上げをすべく、神社を移転させているようでした。一時的なものなのかどうか、詳細は解りませんが様々に未来を見据えた街づくりが行われています。海沿いに、素敵な商店街が完成しておりましたが、立ち寄る時間が無く、少々残念な気持ちもあります。またの機会に。

石巻市では、日和山公園にある鹿島御児神社から海に向けての読経供養となりました。

神社の方々の快いご許可を頂きましてからの、読経供養。眼下には、新しい建物が幾つか見え、橋を往来する多くの車も見えます。石巻にテレビカメラが入るとなると、この景色が映ります。海は、まるで何事も無かったかのように静まり返り、ただただ美しい海でした。

東松島市には、滝山公園というところの高台にある慰霊碑に行って参りました。

大変に素晴らしい眺望でしたが、それだけにやはり、被害の状況が見て取れます。海岸に植えられた防風林防砂林も、隙間だらけになっている様子が伺えます。この高い場所から、街の復興を見守っている・・・・そんな印象を受けました。

限られた時間の中で、様々な地を訪れ、その様子を見ながら読経供養をして参りました。親しき人、愛する人、多くの人達が亡くなり、今も悲しみの中に暮らす人達も、多くおられます。毎年3月になりますと、復興、復興、との言葉がテレビやラジオや紙面に踊りますが、簡単なことでは無いと感じる人は多いのではないでしょうか。現地の方々なら、尚更のことだと思います。 しかしながら余所者の私達は、復興を目指す街々を見るとき、人々の力や、その積み重ねを目の当たりにして、圧倒されます。見えない想いが積み重なって形になっていく様を。

辛い選択を否が応でもせねばならないこともあるでしょうけれども、それはきっと、未来を繋いで行くためにせねばならない選択でもあるのではないか…と、思いました。
まだまだ、東日本大震災は、過去のものでは無いのです。街づくりをみていると、過去のものにはしないという意気込みを、感じるのでした。亡くなられた方々の想いもまた、街づくりと共にあるのではないでしょうか。