タイ研修旅行レポート3

托鉢と懺悔

街が動き出す朝五時過ぎ。タイ上座部の僧侶の一日は、托鉢から始まります。

増徳院先々代の藤井真水僧正を中心に建立された、日本人納骨堂。高野山から堂守として派遣され、タイ上座部仏教の具足戒を授かり、托鉢を許されている神田師の後を、私達は同行させて頂きました。

つぎから次へと街の人々が、托鉢僧に対しお供えをされるのかと想像しておりましたが、実際は異なりました。一時間ほど歩き続ける托鉢の中で、たった数人の方々だけのお供えのみ。ですが、托鉢僧に対しお供えをされる街の人の姿は、強く印象に残りました。

自分の顔の前で丁寧に合掌し、深々と頭を垂れ、中にはお供えを渡した後にしゃがみ込んで手を合わせる人々。炊きたてのご飯やおかずを、自分たちが食べる前に取り置き、先ず托鉢僧に捧げる習慣は、仏様に毎朝お供えする日本での仏飯を思い起こさせました。

托鉢僧にお供えを受け取ってもらえる事で、お供えする側は自分自身の布施行を積む事が出来る。自分の功徳を積む場を、僧侶によって頂いている事がよく分かっており、僧に対し合掌される姿に、その大きな感謝の念がよく現れておりました。

タイの朝の光景に、高野山で修行中に食事作法の五観で唱えた、始めの二偈を思い出し、偈文が胸に刺さりました。

一ニハ 功ノ多少ヲ計リ 彼ノ来処ヲ量レ
二ニハ 己ガ徳行ノ 全カ闕カ多カ減カヲ忖レ

どれだけの方々の手間と苦労と関わりがあって、有り難く自分の目の前に食事となって並ぶのか。

己の日々の行いが、しっかりと全うされ、その食事を頂くのに値する努力や修行が足りているのか欠けているのか、頂くだけの資格が本当に自分にあるのか無いのか。

戒律により正午以降は、食事を取らない上座部の僧侶。托鉢でのお供えは重要なはずです。毎日の修行が試され、日々の食事が左右される様にも思えました。

日本に住む大乗仏教の僧侶として生きる自分と比べた時、自分の日々の食事とはいかがなものか。毎日三度、食べたいものを頂く事の出来る自分の食事と、タイの僧侶が頂く食事と、何が違うのか。

実は、何も変わりはありません。お寺があり、御本尊様があり、お檀家様があり、そのお檀家様のお布施によって、日々の食事が有る。賜ったお供えを、食事としてそのまま食べられるかどうかの違いはありますが、お布施という意味では、変わらないはずです。

では何故、違いを感じるのか。高野山での修行中、食事の度に唱えた五観の偈の教えを忘れ去り、怠惰な生活を自分自身が送っているからこそ、大きな違いを感じたのだと思います。僧侶として生きる上で、毎回の食事を頂くこと自体が修行そのもの。タイ僧侶の托鉢を実際に自分の眼で見て、自身が日々頂く食事の意味を再確認いたしました。

当たり前のことがあまりに分かっていない自分。日々の生活に於ける自らの修行の不十分さ。懺悔の念を、痛いほど托鉢行の同行により教えて頂きました。

神奈川青年教師会発足四十周年を記念し、あえて自らを省みて懺悔の機会を与えて頂いた事に、この場を借り感謝申し上げます。また、クーデターにより参加を断念された方々もいる中、多くの方々にご心配お掛け致しました事、お詫び申し上げます。

合掌