弘法大師足跡巡礼の旅、最終日16日は、乙訓寺、神護寺、神泉苑を参拝致しました。
最初に訪れた乙訓寺は、飛鳥時代推古天皇の勅命により聖徳太子が建立したと言われています。
延暦3年(784年)桓武天皇が長岡京を造営した際には都の地鎮として大規模に増築し、また藤原種継暗殺事件の首謀者の嫌疑をかけられた早良親王が幽閉された場所でもあると言われております。
弘仁2年(811)11月9日には、嵯峨天皇よりお大師様は当寺別当に任命され、一時住したとされます。
そのためお大師様の残された事跡は多く、八幡明神の霊告をうけて合体の像が造られています。
弘仁3年(812)10月27日に、最澄が乙訓寺を訪れお大師様に会われた際、両部の現図曼荼羅と尊像を前に密教や、これからの日本仏教について熱く語り合われたと伝えられています。
次に参拝した神護寺は、平安京造営の推進者である和気清麻呂が、都の北西に位置する愛宕五坊の一つとして高尾山寺を創建すると共に、国家安泰を祈願する為に河内に建立したものです。
後に両寺を合併し、天長元年(824)には、神護国祚真言寺(じんごこくそしんごんじ)と改められます。高尾山寺時代、和気一族に招かれた最澄やお大師様が入山され、以後仏教界の中心的な役割を果たして行くこととなります。弘仁3年(812)にはお大師様が最澄に真言密教の儀式である灌頂をお授けになりました。
以来、お大師様は当寺納涼房を住まいとされ、中国より帰朝されてから14年間住持されたそうです。この間、真言密教の儀式である灌頂を行うなど、真言宗立教の基礎を築かれていったのです。平安時代に2度の災害の為、堂塔のすべてが焼失し、文覚上人が再興しました。
しかし、応仁の乱で再び兵火を受け焼失し、元和9年(1612)龍厳上人の時、所司板倉勝重の奉行によって楼門、金堂、五大堂、鐘楼が再興されました。さらに、昭和10年山口玄洞居士の寄進で今日の姿となっています。
最後に参拝した神泉苑は、平安京遷都とほぼ同時期に禁苑(天皇のための庭苑)として造営されました。
苑内は、自然を取り込む大規模な庭園が造られ、敷地内の北部には乾臨閣を主殿とした宏壮な宮殿が営まれていたと言われています。
天長2年(824)淳和天皇の勅命によりお大師様は神泉苑の湖畔にて祈られ、北印度の無熱池の善女龍王を呼び寄せられたと言われ、その後も多くの雨乞いが行われたと言われています。
また、貞観5年(863)に行われた御霊会は庶民にも解放し盛大に執り行われ、厄払いの願いを籠めて66本の鉾を立て神泉苑に送ったことが後の祇園祭の起源とも言われております。
善女龍王社の横にある朱色の橋は法成橋と言い、神泉苑で頂いたお守りを胸に抱きながら一つだけ願い事をお願いしながら渡ると、必ず叶うという事で有名だそうです。
4日目は、お大師様と最澄が熱く語り合った乙訓寺、最澄らに灌頂を授けた神護寺、お大師様が雨乞いの祈りを捧げた神泉苑と、お大師様ゆかりのお寺を一寺一寺丁寧に参拝させて頂きました。
1200年と言う長い年月の中で、火災や戦乱などにより堂塔などが焼失してしまったところも多く、お大師様がいらっしゃった当時とは風景が変わってしまいましたが、そこに根強く残るお大師様の想いというものがひしひしと伝わってまいりました。
今回の旅に参加したことは、改めて僧侶としての自分自身を見つめ直す良い機会になりました。この巡礼の旅で得たことを、これからもしっかり生かしていきたいと思います。